第10回 過酷な歴史に、甘く香る黒糖焼酎
沖縄本島から39人乗りの小さな飛行機に乗って1時間。古代種の亜熱帯植物が鬱蒼と茂った深い森と、突き抜けるエメラルドグリーンの海、日本で唯一黒糖焼酎造りが許可されている奄美群島(大島、加計呂麻〈かけろま〉島、与路〈よろ〉島、請〈うけ〉島、喜界〈きかい〉島、徳之〈とくの〉島、沖永良部〈おきのえらぶ〉島、与論〈よろん〉島の8つの有人島からなる)の中心地、奄美大島に着きました。
奄美大島は沖縄本島、新潟の佐渡島に次いで日本で3番目に大きい島(719平方キロメートル)で、起伏が激しく、飲み込まれそうな深い原生林が印象的な南部と対照的に、北部はサトウキビ畑が広がるなだらかな地形です。風にそよがれ揺れるサトウキビ畑を横目に見ながら、奄美での黒糖焼酎の歴史について考えてみました。
1609年、薩摩・島津藩の琉球侵略と時を同じに、奄美も島津の治下になりました。その1年後、琉球への渡航中、台風に遭い中国に漂着した直川智〈すなおかわち〉が、滞在中に習得したサトウキビの栽培、製糖法を持ち帰りました。それに着目した島津藩は藩の特産品として奄美の人々に黒糖生産を強制したのです。生産された黒糖は島津が支配、島民が黒糖で焼酎を造れる筈もなく、鍋に残った黒糖の洗い汁を発酵させたという説もありますが、大部分はサツマイモやソテツの実などで焼酎を造っていたようです。その後約260年間奄美は島津の統治下に置かれ、その頃に島唄も生まれました。
仇ぬ世の中に
永らへてをれば
朝夕血の涙
そでどしぼる
(奄美島唄)
(不仕合わせなこの世の中に長生きしておれば、憂きことのみ多く、朝夕血の涙で袖しぼるのみ)島津統治下で虐げられた民の唄です。
奄美は琉球王朝の支配下の時代に始まり、島津、アメリカと、絶えず時代の流れに翻弄されてきました。戦後、アメリカ軍政下時代にラム酒と同じ製法となるサトウキビの糖蜜を発酵・蒸留して黒糖焼酎を造る所もありましたが、1953年、沖縄より約20年早く日本復帰を果たした奄美は酒税法の特例として、麹を使う事でラムと区別して酒税を軽減し、北緯27度から29度内の奄美群島だけに本格焼酎としての黒糖焼酎の製造が認められるようになりました。
正式には、まだ50年程の黒糖焼酎の歴史ですが、苦難の時代を乗り越えて造り上げられた素晴らしい焼酎です。甘く柔らかな香りに、これから創られてゆく、奄美の黒糖焼酎の歴史を思い描かずにはいられません。