本格焼酎&泡盛・産地巡り

第25回 鹿児島人と薩摩芋の絆とは

 大きな車窓から雄大な2つの桜島が見えます。涼しさを感じる空の青に浮かぶ桜島と、深い青を湛える海にうつる逆さの桜島。東京を出て3時間、鹿児島を象徴するこの活火山を眺めながらの鉄道の旅を満喫し、加治木地区へ。鹿児島県最古という本格焼酎蔵に到着しました。

シラス台地に拡がる薩摩芋畑

シラス台地に拡がる薩摩芋畑

 「芋の特性をどのように引き出してやるか、ということが焼酎造りには一番大切なことです」と蔵元さんは語ります。さつまの芋、薩摩芋。その歴史について伺いました。「薩摩芋は1698年に琉球から種子島に伝来しました。種子島藩主の種子島久基、芳久親子が芋の栽培方法を確立し、鹿児島本土に広く普及するようになったのは1705年に前田利衛門が琉球から薩摩芋を持ち帰って来てからとされています」。そう、今年2005年は鹿児島県本土に薩摩芋が伝来してちょうど300年なのです。それまでの鹿児島の焼酎は米の代わりの黍(きび)、粟(あわ)、稗(ひえ)などが原料の雑穀焼酎でした。「薩摩芋が伝来した事によって鹿児島の人々は命を繋げることが出来ました。当時薩摩藩は3つの指に入る貧乏藩。火山噴出物(細粒の軽石や火山灰など)が集積した地層であるシラス台地に侵食された土地のせいで稲は育たないし、作物も駄目。しかも中国や朝鮮などと密貿易をしていた上、幕府の言うことを聞かなかったため幕府からは敵対視されていました。しかし、薩摩藩は幕府に77万石と通達していました。77万というと当時一位である加賀100万石に次ぐ石高です。なぜそんな事をしたかと言うと『薩摩藩=貧乏藩』なんてことがばれたらそれこそすぐに幕府の力でねじ伏せられます。見栄を張る必要があったのです。しかし米の収穫は少なく、敵対視されているため税金は多い。しかも嫌がらせのため幕府から無理難題を押し付けられる。それを救ったのが台風に強く、シラス台地に適性を持った『薩摩芋』だったのです」。

 鹿児島の人々を飢餓から守り、焼酎という楽しみをも与えた薩摩芋。根菜作物である薩摩芋は掘り出された後、空気中に放置される事によって酸化し、空気中のバクテリアによって汚染、腐敗されやすいので、貯蔵が難しい。貯蔵できない芋を焼酎の原料として使われる事は自然な流れなのでした。
 「芋の特性をどのように引き出してやるかが一番大事」と言われた蔵元さんの気持ちが分かるような気がしました。薩摩芋と共に歩んできた鹿児島の人々。絆は芋蔓(いもづる)のごとく強く、太いのです。

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