第45回 焼酎杜氏の里
サツマイモを満載したトラックが焼酎蔵に続々と運び込まれてくる。残暑厳しい蔵の中に芋を蒸す甘い香りと蔵人の熱気が漂う。待ちに待った季節の到来である。だが、近頃は年輪を顔に刻み込んだ老杜氏の顔が見えないのが寂しい。
焼酎杜氏の始まりは明治35年頃と言われる。杜氏たちにとって今年は110回を超える蔵入りになる。その歴史は焼酎の近代化を支えてきた歴史でもある。焼酎が自家醸造の時代から免許制に移行し商業化の道を歩む頃に焼酎杜氏は誕生した。明治末期から大正の初めにかけて二次仕込法が開発され、黒麹菌を導入して、焼酎杜氏はその普及に大きく貢献した。
黒瀬集落は薩摩半島西南端の東シナ海に深く切り込んだ半島の一角にある。平地に乏しく、海とわずかの田畑に生きる人たちは山あいを段々に耕し、生活の糧を出稼ぎに求めてきた。芋焼酎造りは10月から12月の農閑期であり、熟練を要する技能者は高収入が得られ待遇も良かったことからその技術は親から子へ、親戚へと伝えられ杜氏の里を築いてきた。かねて無口な杜氏も、焼酎の話となると止まらない。老杜氏によれば、戦前は朝2時ころから仕事をはじめ夜の7時過ぎまで働いた。米はザルに入れ足踏みして洗い、麹の温度は手の甲で測定した。芋は組んだ木材でゴシゴシかきまぜながら洗い、蒸した芋は臼で潰した。すべてが手作業である。人の手配は一人1日50貫で計算した。1000石の蔵だと10名程度の計算になる。
昭和35年頃、焼酎杜氏は370名を数えたが、この頃から始まる機械化の進展は労力の軽減に多大な貢献をしたが、一方で杜氏・蔵子の減少をもたらし、今は数えるほどしかいなくなってしまった。20年前に杜氏の技術を伝承することを目的に「杜氏の里笠沙」が設立されたが、技だけではなく、焼酎造りに賭ける思いを引き継いでもらいたいものである。