第14回 麦焼酎大国「大分」誕生の物語
300年もの伝統を誇る大分の夏を彩る“日田(ひた)祇園祭り”の勇壮な山鉾が地元新聞の一面に踊るなか、大分駅に到着です。
暑い!連日35℃の大気に山並も霞んでみえます。駅前には戦国時代に南蛮交易によってこの地の全盛期を築いた大友宗麟(おおともそうりん)の像が盛夏の光を浴び、大分市を見つめています。駅で名物のさば寿司弁当をほおばり、さあ本格焼酎の新たなページを開いた地、大分探究です。
73万石を超える全国一の焼酎出荷量を誇る大分県は元々豊かな穀倉地であり、阿蘇・九重連峰、九州山地を源とする水系にも恵まれ、清酒製造量も九州第2位です。
大分県では江戸時代から清酒とともに粕取り焼酎が造られていて、明治期からは白糠や穀物を原料とする焼酎も造り出されていましたが、戦前まで全国でも福岡県に次ぐ粕取り焼酎の産地でした。
昭和26年、麦の統制撤廃が実施され、麦が自由に購入できるようになると、麦麹を用いて味噌や醤油を造る麦麹文化といえる風土を持っていた大分では、焼酎用の麦麹の開発が始まります。
大分市の北、別府湾を望む日出町の蔵元が、昭和48年、優れた麦麹の製造に成功し、麦麹と麦を原料とした本格焼酎を世に出します。麦100%の、それまでになかった軽快な味わいの本格焼酎が誕生したのです。
この焼酎専業蔵は大分の県民誰しも親しむ民話「キッチョム噺」の主の名を付けた銘柄も出します。陶器ボトル入りで発売されたこの銘柄は、料飲店での焼酎のボトルキープの先駆けともなって、全国ブランドとなります。
そして全国八幡宮の総本社、宇佐神宮の近くにある蔵元が、昭和54年、大分の豊前(ぶぜん)方言で「いいですよ」という意味の言葉を銘柄にした、同様に麦100%の焼酎を造り出します。
そのすっきりとした味わいは時代の支持を受けて、東京、京阪神より全国に向けて出荷量を発売5年で40倍に延ばし、50年代の焼酎ブームを牽引することになります。
おりしも昭和56年頃より展開された「一村一品運動」を大分県が率先して進めるなか、麦焼酎はその先峰となり、大分全域で造られ愛飲されていきます。
2大メーカーと、個性ある本格焼酎を造り続ける各地域の蔵元が共存する大分は、現在33を数える蔵元が、懐の深い焼酎王国を造りだしているのです。