第7回 台湾、琉球、奄美
台北から車で走り続けること3時間半。台湾中央部の山中に、信濃川の流れと信州の山々を思わせる爽やかな高原の景色が広がっていた。山水に恵まれいかにも銘醸地を思わせるこの地に、激動の時代を生き抜いてきた酒造工場を訪ねた。
清国領地であった台湾は、日清戦争敗戦の結果割譲され、昭和20年までの51年間、日本の支配下に置かれた。台湾総督府は、それまで専売であった、塩、樟脳、阿片に加えて、大正11年から酒を専売にした。ただの専売ではない。製造から販売までのすべてを専売にするという世界的にも珍しい制度である。これにより昭和14年には専売収入が歳入の約5割近くに達し、その4割が酒税収入という。総督府は亜熱帯気候の下で日本式の清酒造りを押し進めるが、太平洋戦争の勃発は米不足をもたらし清酒製造は大打撃を受けてしまう。戦後は大陸の紹興酒や白酒にとって代わられ、清酒工場は紹興酒工場へ変わった。
実は、植民地化以前の台湾で造られていた酒は、米酒(米焼酎)、サツマイモ原料の蕃薯酒(芋焼酎)、糖蜜酒(黒糖焼酎)など伝統的な蒸留酒だった。その現状を知りたかったのだが、日本、中国の影響は台湾原住民の酒を遠い歴史の彼方に葬り去り、過去の古い遺物として切り捨ててしまっていた。激動の歴史を象徴的に物語っているようである。
台湾からの帰り、沖縄、奄美に立ち寄った。同じように苦難の歴史を持つ島である。ところがここにはちゃんと歴史の酒が今なお健在である。米軍統治の影響を乗り越え、沖縄では琉球王府以来の泡盛が、奄美では黒糖地獄を乗り越えた黒糖焼酎が主役の座をしっかりと守っている。この違いは何だろう。
原料は国際化できても、微生物や酒つくりの環境、長い歴史の中で培われた嗜好を移すことは容易ではない。台湾から琉球、そして奄美、薩摩と飲み歩いた旅は、酒が動かすことの出来ない風土の詰め込まれたものであることを改めて実感させた。