第57回 斉彬公とオランダ
「オランダと焼酎についての講演を」と頼まれてハタと困ってしまった。焼酎は日本の独自色の強い酒で、中国はともかく、西洋となるとそのかかわりがきわめて少ないからである。しかし、頼まれたら断るわけにいかないので調べてみた。
オランダは、1609年(慶長14)平戸に商館を設立し、その後長崎の出島に移るが、幕末までの約約230年間,日本の貿易国として来日しつづけた唯一の西洋の国である。西洋の文物はオランダを通じて日本へもたらされたのである。その蘭学に興味を持ったのが、蘭癖大名と呼ばれた島津重豪公である。重豪公にかわいがられたのが11代薩摩藩主となる曾孫(ひまご)の斉彬公で、これまた大のオランダ好きであった。斉彬は蘭学者を優遇し、蘭学者を通じて蘭書を取り寄せ、翻訳させて近代化事業を次々と興した。その集成館事業(2015年世界遺産登録)は、蒸気船の建造、製鉄、白砂糖、電信機、ガス灯、写真術、製塩など多岐に及ぶ。
斉彬は、焼酎についても研究の必要性を説いている。それは「火薬をつくるのに大量の米(焼酎)を使う。しかし薩摩は米不足の国なので他国から大量の米を買い入れなければならず、領民に米焼酎の製造を禁止しなければならない。そこで芋焼酎の製法を工夫し、軍需用、医療用、そしておいしい芋焼酎の製法を研究すべし」というものである。基本は、芋焼酎のアルコール度が米に比べて低いのでアルコール度の高い芋焼酎の開発を説いたものである。そこで気になっていたのは、海外事情に通じていた斉彬が何か情報をもっていたのではないかということである。
調べているうちに興味深い蘭書の記録に出会った。それは「油取諸道具の仕掛図」なるもので、出島で実際に実演指導された蒸留器である。その構造は、大正以降焼酎用蒸留器として普及することになる蛇管冷却式蒸留器とそっくりで、より効率よくアルコールを回収することができる構造のものである。
斉彬公がもう少し長生きしていれば、そしてこの蒸留器を知っていたとすれば、焼酎の近代化もより早まっただろうに。