春秋謳歌

第54回 「朝鮮通信使」を世界記憶遺産に

第54回 「朝鮮通信使」を世界記憶遺産に

 江戸時代、朝鮮王朝が日本に送った外交使節「朝鮮通信使」の関連資料を、日本と韓国の民間団体が共同でユネスコの世界記憶資産に申請することが決まった、との報道にいささか興奮した。

 日本に焼酎が伝播したルートのひとつに朝鮮経由説がある。儒教政権の李朝時代には多彩な酒文化が生まれ、1433年にはどこの家にも焼酎があった記録があり、1404年には対馬の宗氏に焼酒10壜が贈られている。これは日本に焼酎がもたらされた最古の記録である。以後、1494年までに1880壜が対馬に贈られている。だがこの頃、対馬で焼酎が造られた記録はない。当時の朝鮮と対馬との関係は微妙である。ある人は「島内で米がほとんど取れず、自給自足が不可能だった対馬藩にとって中世以来朝鮮との交易が不可欠であったことから、朝鮮の焼酎が日本に伝来しなかった筈がない。」といい、ある人は「倭冦の基地でもあった対馬に朝鮮は悩まされ続けてきた。朝鮮は懐柔のために米などを与え、条件付きで貿易を許したのであって、決して友好的な関係であったのではない。」という。これまで焼酎伝来を裏付ける資料は見つかっていない。

朝鮮國通信使の碑(対馬)

朝鮮國通信使の碑(対馬)

 それから時を経て、慶長12年(1607)から文化8年(1811)の間に朝鮮通信使が12回来日した。日本側の受け入れ口は、対馬の宗氏で、その中心となって活躍したのが儒学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668~1755)である。日本側資料には芳洲の著書も含まれている。芳洲は「たがいに欺かず、争わず、誠実と信頼が肝要」と説き、朝鮮の信頼も厚かった人物である。

 興味があるのはこの資料の中に、酒に関する記述があるかどうかである。時に500人にも及んだという通信使一行の旅には当然、酒も同行していたことだろう。飲酒文化の異なるものどうしが酒を酌み交わしながらの交流もあっただろう。

 「朝鮮通信使」関連資料が世界記憶遺産に登録され、広く公開され、新たな知見が得られることを楽しみにしている。

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