第50回 サツマイモ普及の謎
今年も鹿児島の大地はサツマイモの緑の絨毯で覆われている。この絨毯のきっかけを作ったのが薩摩の漁師、利右衛門ということになっている。1705(宝永2)年、利右衛門は琉球からサツマイモの苗を持ち帰り薩摩全土に広め、このサツマイモのおかげで薩摩は大飢饉に餓死者を出さなくて済んだ。これに着目したのが青木昆陽でサツマイモは全国展開が図られることになる。そして、柳田国男をして「実際この小さな島国に5千九百万人を盛りえたのは一半は即ちカライモの奇跡である」(「海南小記」)と言わしめるまでになる。利右衛門は「甘藷翁(からいもおんじょ)」と崇められ、明治になって前田の姓をもらい、薩摩半島南端の山川の徳光(とっこう)神社に神様となって祀られることになる。
だが、不思議なことがある。一介の漁師がどうしてこれだけの偉業を短期間になしとげられたのだろう。どうやらそこには琉球・奄美大島、台湾との交易を通じ莫大な利益をあげていた山川の豪商、河野(こうの)家の存在があったようである。伝承によれば利右衛門はこの河野家の水夫であったという。河野家は薩摩藩の財政を支え、薩摩藩中枢と密接な関係にあった(松下尚明「山川の豪商河野覚兵衛伝」)。そして、この薩摩藩の家老として敏腕を振るっていたのが種子島家である。とりわけ種子島家19代久基は藩内の殖産興業や財政立て直しに大きな貢献をしている。
実は、利右衛門が持ち帰る7年前に琉球王尚貞から甘藷一籠が種子島の領主だった久基に贈られ、久基はこの甘藷の栽培に成功していた。薩摩藩の要職にあった久基がどうしてこれを普及させなかったかも疑問に思っていたところである。
おそらく、久基は河野覚兵衛の進言をもとにサツマイモの普及を薩摩藩内に奨励したのではなかろうか。多分に推測も入っているが、当たらずとも遠からずという感はある。だとすれば、その功績を利右衛門一人のものとし、それを裏で支えた河野覚兵衛、種子島久基公の振る舞いは見事というほかない。この人心掌握術はもって範としたいものである。