第52回 焼酎杜氏と後継者
11月1日の「焼酎の日」の頃になると、南国鹿児島も朝夕めっきり涼しくなる。とりあえずビールで乾杯の季節が過ぎて、初めから焼酎のお湯割りが多くなる。この季節、あちこちの蔵元で新酒祭りが賑やかに開催される。今年は、とりわけ国民文化祭が鹿児島で開催されるとあって、県外の客を巻き込んだイベントが数多く企画された。今年の「第30回国民文化祭・かごしま2015」のテーマは「本物。鹿児島県~文化維新は黒潮に乗って~」である。黒潮に乗って、サツマイモが伝来し、焼酎蒸留器もこの海を渡ってきたことから、焼酎にかかわるイベントも数多く、今年はとりわけ盛り上がっているようである。
ただ、いささか寂しいのは焼酎の技術と文化を支えてきた杜氏たちの姿が見えなくなりつつあることである。焼酎杜氏の始まりは明治35年頃で、113年前である。明治32年に自家醸造が禁止され、集落ごとの共同製造の時代を経て、零細な製造場が淘汰され、焼酎製造業の近代化が始まる頃に焼酎杜氏が生まれた。家内工業を脱し、専門の技能者が必要とされた時代である。
焼酎杜氏には、黒瀬杜氏と阿多杜氏の二つの流れがある。ともに競い合い、研修を重ね、焼酎独自の製法である二次仕込法と黒麹菌を使いこなし、焼酎製造業の発展に大きな貢献をしてきた。昭和30~40年代には黒瀬杜氏が370名、阿多杜氏が130名と500名近い杜氏集団を形成していた。このころから設備の大型化、自動化が進み、杜氏の労力は大きく軽減することになるが、焼酎市場が拡大する中で、皮肉にも熟練技能者の杜氏の数は減少していくことになる。
今、阿多杜氏は最後の一人を数えるだけになった。80歳で現役のこの杜氏は後継者の育成に力を注いでいる。黒瀬杜氏も数えるほどになった。杜氏たちに学ぶのは技能だけではない。造りに対する姿勢を何より学んでほしい。その姿勢こそが文化なのである。