第22回 球磨焼酎・今は1時間、昔は2週間
『相良(さがら)700年歴史のまち』人吉・球磨地方はこのように表わされることがよくあります。鎌倉時代の初めから廃藩置県(1871年)が施行されるまでの700年間、相良氏唯一族が他藩の侵入を許さず、戦火を免れた多くの文化財を今の時代に残しているためです。
鹿児島空港から高速バスで約1時間。あっという間に人吉市に到着です。秋晴れの高い空と球磨川を流れる清流を眺めながら散歩気分、蔵元さんに着きました。「相良藩は石高2万2千石の小藩でしたが、実際は10万石。何故そのような事が出来たかというと、人吉盆地というのはひょうたん型になっていて、役人の検地が行われる土地の奥にもっと広い盆地が広がっていたのです。それが最後まで気付かれなかった。まあ手前の盆地で役人に美味しい球磨焼酎を沢山飲ませて酔払わせていたのかもしれませんね」。なんと大胆な球磨の人々。しかしその時代は人吉に着くまで八代から球磨川を逆流して2週間もかかっていました。途中には清正公岩(せいしょうこういわ)と呼ばれる岩があり、その昔、加藤清正が相良氏を討伐すべく球磨川を進んだところ、重なる山々に嫌気が差し諦めて引き返した場所と伝承されています。役人が疲れ果てて到着した盆地のまたその奥に広大な稲田があるなんて思いも寄らないのも頷けます。だからこそ米が裕福の尺度だった時代に、米が原料である球磨焼酎を造り続ける事ができたのでしょう。しかし球磨の方々が大の焼酎好きということも大きいようです。
「1828年、このあたりで飢饉が起こり、焼酎製造の禁止令が出ました。普通は食べられないくらいならお酒は飲みませんよね。でも球磨・人吉の人々は違った。一揆が起こり、条例を出した家老が切腹するという事件が起こりました。人々にとって米を食べるほうより、焼酎を飲んだほうが良いということです。1858年にコレラが流行った時も『熱い焼酎を布に浸してから体を拭いて、お茶と焼酎と砂糖を混ぜたものを飲んで体を温めなさい』という内容の回文が書かれました。このように、歴史的に見てもこの土地と焼酎の関わりは本当に深いのです」と蔵元さん。その顔には球磨焼酎に対する愛情と自信が見えました。
夜になり、空に昇った月と球磨川を滑る月、そして芳醇と清涼を醸し出す球磨焼酎に浮かぶ月、3つの満月が見えます。月は人吉・球磨地方の歴史を眺め、人々の球磨焼酎に対する愛情を眺めてきました。そしてこれからもずっとずっと、眺めていくのです。