第11回 対馬の孝行芋焼酎
南国鹿児島も昨年の塵を吹き払い清めるかのように、冷たい風が新春に吹き荒れていた。たまには身が引き締まるような年の始まりも悪くはない。何より焼酎のお湯割りがよく似合うではないかと勝手にこじつけながら、湯気の中に、今年の世相と昨年の暮れに訪ねた対馬のことをダブらせていた。今年を乗り切るヒントがそこにあるように思えたからである。
平地が少なく米がほとんどとれず、自給自足が不可能で、朝鮮との貿易に頼らざるを得なかった対馬藩は朝鮮と幕府の間にあって老獪に、またしたたかに立ち回り、財をなした。古色蒼然とした森の中に対馬宗家歴代の立派な墓が建ち並ぶ万松院(ばんしょういん)はかつての繁栄の程を偲ばせている。だが、その交易は日朝間の政治的関係の中で揺れ動き、いつ途切れてもおかしくない綱渡りの連続であった。どこか、海外との貿易に頼る現在の日本の状況に似ている。
そのなかで、対馬の自立を強く訴えた人がいた。対馬藩の要職にあり、農学者でもあった陶山訥庵(すやまとつあん)である。対馬は田畑が少ないのに加えて猪の害に悩まされていたところでもあった。だが、猪退治をしようにも、時は、“生類憐れみの令”を出した五代将軍綱吉の時代である。陶山は「憐れむべきは民である。禽獣を憐れめといっても、それは憐れまないでも済むような民あってこそのものである」と説いた。今の時代、聞いて貰いたい人が一杯います。そして、将軍の方針に逆らって9年もの歳月をかけて8万頭に及ぶ猪の殲滅に成功する。さらに薩摩から伝来間もないサツマイモを取り寄せ普及させた。このサツマイモは孝行芋と呼ばれ、芋焼酎も広く造られるようになる。
酒は、歴史、文化、風土が詰め込まれてその味わいを深めていく。その意味で対馬の芋焼酎が現在に伝わらないのは何とも寂しく、もったいない。“孝行芋焼酎”を蘇らせ、対馬聖人と呼ばれる陶山訥庵翁の精神を伝え、訥庵翁に捧げたいものである。