第38回 酒の原風景
旅の楽しみは何と言ってもその土地の酒とその土地ならではの肴に尽きる。そこには忘れられようとしている酒の原風景がある。
6月というのに信州上諏訪は肌寒かった。駅前のホテルについてさっそく居酒屋を探す。酒飲みの勘で、落ち着いた感じの店に飛び込んだ。まずは生ビールを注文し、地元のものらしい肴を探す。馬刺しが目に入った。馬刺しといえば熊本だが、信州で馬刺しは珍しいので赤身を頼む。トロもあったが、油の乗ったトロはあまり好きでない。感じのいい若女将が、赤肉の馬刺しは会津からの国産で、トロ肉はカナダ産だと教えてくれる。となれば酒は当然、国酒でないといけない。国酒といえば清酒と本格焼酎だが、ここは7号酵母の故郷とあって、清酒を選ぶことにする。お奨めの酒はと聞くと、こちらの酒は甘口が多いので鹿児島からだとこちらの本醸造がいいかと思います、というのでお奨めの酒を冷酒でいただく。料理の味を損なわないあっさり感が気に入った。
若女将がこれ食べてみませんかと持ってきたのが、なんとイナゴの佃煮である。昔から貴重な蛋白源として食べていたのだという。土地ならではの酒の肴を探し求める身には断る理由がない。おっかなびっくり口に入れる。ンン。グニャッとした味を想像していたが、結構コシがあってなかなかいける。酒の肴としてもなかなかのものである。ただし3匹までなら。遠来の客に出すと話が弾み、よい土産話ができたと喜んでもらえるのだという。イナゴや山菜を肴に囲炉裏のそばで燗酒を飲んでいた光景が浮かんでくる。この酒もこの土地の気候と風土、そして人情の中で育まれてきたものという思いを強くする。そして至福の時を大吟醸で締める。これに肴はいらない。
店を出ると雨。若女将が返さなくて結構ですのでお持ちくださいと傘を貸してくれた。酒の価値はメーカーだけが決めるものではない。他所では味わえないしっとりとして豊かな世界を大事にしたいものである。